松浦晋二郎ブログ(連絡先:ivishfk31@gmail.com)

2017年2月から4月まで松浦晋二郎は千田有紀の論文に「千田の博士論文」と「千田の博士論文ではない論文」という全く同一タイトルの2つの異なる論文が存在する事実を知らずに後者を前者であると勘違いしてブログ記事を執筆していた。ところが千田は松浦が上記勘違いをして記事を書いている事実を松浦に教えずに黙ってじっと見ていて松浦のブログ記事数がたまったところで同年4月下旬名誉毀損を理由に提訴した。千田は自己の意思で千田の主張する「名誉毀損」の「損害」を自ら拡大させ続けた。

千田有紀著・博士論文「『家』のメタ社会学」を読む(2)戸田貞三の「家族」の文言を「家庭」に書き換えて「脚注」までつけたうえ、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学術的意義があるかのように書く。千田博士論文81頁

 

千田有紀氏(武蔵大学教授)は博士論文の中で戸田貞三(東京帝国大学名誉教授・家族社会学者)の家族学説について次のように書いています(注1)。

 

【引用1】

戸田はたしかに「感情的な一体化」を実態視してしまっているが、「人々の生活内容が複雑になり、家庭外に諸種の社会関係が数多く構成されればされるほど、人々は内心の安定を得やすい家族生活に強い憧憬を感じつつあるとも考えられる」(戸田[1937a→1970:116-115〔ママ〕])といったゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、家族の単なる機能縮小といった学説と一線を画した、「家庭」への憧憬をあおる近代社会の分析をおこなってもいる。

 

【引用2】

ここで、家族の凝集性を述べるときには、「家庭」といい直されているのに、注意する必要があろう。

 

上記【引用2】は【引用1】に千田氏が付けた脚注です。脚注番号は46です。

 

千田氏は【引用1】の中の「人々の生活内容が複雑になり・・・とも考えられる」の部分について戸田貞三の著書『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)116-117頁から引用し、戸田が「家庭」という文言を用いている旨指摘しています。

その上で千田氏は戸田が「家庭」への憧憬をあおる近代社会の分析を行っている旨、記述しています。

千田氏はこの点に着目して【引用2】を書いた形になっています。

しかし、戸田の『家族構成』(1937年版の1970年復刻版)116頁の原文では「家庭」の文言は存在せず、「家族」と書かれています。

つまり戸田の原文では「家族」の文言が書かれているのを、千田氏は博士論文の本文で「家庭」と書き換えた上、わざわざ脚注をつけて「「家庭」といい直されているのに、注意する必要があろう。」と書いて、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学術的意義があるかのように書いています。注2(注3)

以上のような千田氏の行為を、学者の世界ではなんと呼ぶのでしょうか?

またこのような行為は、千田氏のキャリアにどのような結果を招来するでしょうか?

 

 【注】

(注1)千田博士論文81頁。

(注2) 本文で紹介した千田氏の行為は、当ブログ記事「『家』のメタ社会学を読む(1)」で紹介した、「男の論理」を崩すための「言葉の亀裂」理論の具体的適用でしょうか?あるいは「既成のアカデミズム」は男性目線だったとして反対する女性学の立場からの、女性目線による記述でしょうか?私にはよく解りませんが、最低ラインとして、学術論文では客観的事実を正確に記述して欲しいものです。そもそも博士論文というものは人類の知的遺産たるに相応しい内容を有していると認められたからこそ学位授与機関から博士号が授与されるわけです。ところが戸田の著書の「家族」の文言を勝手に「家庭」に書き換えたうえ、書き換え後の「家庭」の文言にあたかも特別な学問的意義があるかのように念を入れて注釈までつけて「注意する必要があろう」とまで書く、ということになると、もはや人類の知的遺産どころか、全く信用ができません。どうして東京大学はこのような論文に博士号を授与したのでしょうか?なんのための東京大学で、なんのための学問で、なんのための博士論文なのか、全く理解不能です。

 

(注3)

千田有紀著『女性学/男性学』(2009年、岩波書店)169頁において、千田氏は自分の大学院時代について次のように書いています(傍線部分):

 

大学院時代にお世話になった元指導教員の上野千鶴子先生。・・・『とくべつに指導はしない』と公言されている先生のもとで、本当に自由にやらせてもらいました。

 

千田氏は何を「本当に自由に」やらせてもらったのでしょうか?

 

【注意:本記事は千田有紀氏の博士論文に関して個人的見解・感想を述べたに過ぎず、千田氏に関して特定の断定的・否定的評価を下すものではありません。】